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『オペラ座の怪人』(''The Phantom of the Opera'')は、ガストン・ルルーの小説「オペラ座の怪人」を最初に舞台化した、ケン・ヒルによる1976年初演のミュージカル作品である〔〔。ぞっとするほど醜い怪人の、無垢で美しい歌手・クリスティーヌに対する妄執愛を描いた作品。ヴェルディ、グノー、オッフェンバック、モーツァルト、ドニゼッティ、 ウェーバー、ボーイトらの既存の音楽(オペラのアリア等)に創造的な詞を作詞した〔Goddard, Dan R. Phantomania strikes San Antonio when the original, 1976 version by ''San Antonio Express-News''. mySA.com (San Antonio Archives). 2 November 1990.〕。 == 経緯 == ケン・ヒルの「オペラ座の怪人」は、ミュージカルで舞台化された最初の「オペラ座の怪人」であり〔、興行収入の上でも成功をおさめた〔Crew, Robert.A Phantom for the fun of it ''Toronto Star''. 18 February 1990.〕〔Harrison, Thomas B. PHANTOM MANIA ''Anchorage Daily News''. 27 January 1991.〕。ケン・ヒル版はガストン・ルルーの著名な小説の舞台化版にしては、しばしば過小評価され無視されている。しかしケン・ヒル版のミュージカル作品は、各種の賞を獲得したアンドルー・ロイド・ウェバー版に、多大な影響を与えた作品である(ケン・ヒルは何らの著作権料を受け取ってはいないが)。 ケン・ヒルは古書店を巡り歩き、ガストン・ルルーの原作小説を見つけ出し、ミュージカルで舞台化することを決意した。むろん、ルルーが描いたであろうオリジナルの姿のままで。Morecambe Pierのプロダクションで最初のミュージカル版として着手したが〔Mosley, Andrew. Four decades of change in theatre ''This Is Lancashire''. 28 October 2007.〕、ヒルがニューキャッスル・プレイハウスで演出家をしていたためここでも初演が行われた。1976年7月26日、この初演はランカスターのデュークス・プレイハウスのプロデュースによりヒットした。ジョン・ブラックモアが演出、クレア・リスがデザイン、ゲイリー・イヤーションが音楽監督を務めた。のちの版とは違い、ヒルと『''The Curse of the Werewolf'' 』で関わったことのあるアイアン・アーミットがモダンな楽曲を作曲し〔Richard Corliss and William Tynan.Phantom Mania ''Time''. 1 March 1993.〕、グノーのオペラ『ファウスト』がらの引用も使用した〔Herman, Kenneth. CLASSICAL MUSIC / KENNETH HERMAN Batiquitos Festival Wasn't Music to Performers' Ears ''Los Angeles Times''. 19 July 1988.〕。このケン・ヒル版は原作小説の非常にユニークな派生作品である。、殺人とミステリーの世界に歌を加え、衝撃的な舞台演出をした。これは、ルルーの小説がも ともと持っていながらも、長い間忘れ去られていた知的な物語の再来であった。ルルーのようにケン・ヒルもまた、「怪人」が単なる「芸術家の想像の産物」 (''creature of the imagination of the artiste'')ではなく、むしろ劇場に入場する全ての者の、心の琴線に触れる魂そのものであると感じていた。ケン・ヒル自身は、「舞台を楽しんでくれ。全くもって楽しい舞台だ。ちょっとだけ深刻なものだけどね。人生のように…」(''“Enjoy it. It's all fun. Though it has its serious bits. As in life ...”'')と話している。 1984年、ヒルは改訂版を製作した。今回は19世紀後半、実際にガルニエ宮で演奏されていたような音楽を使用したかった。そのため彼はこれまでのアーミットによる音楽を破棄し、原作の文章を基にオリジナルの英語の歌詞を作詞した。グノー、オッフェンバック、ヴェルディ、ウェバー、モーツァルト、ドニゼッティ〔、ボーイトのオペラ・アリアに置き換え〔、原作が書かれた時代の音楽での製作を行なった。この改訂版はニューキャッスル・プレイハウスとシアター・ロイヤル・ストラトフォード・イーストの共同製作により、1984年4月3日にニューキャッスル・プレイハウスで開幕し、その後シアター・ロイヤル・ストラトフォード・イーストでも上演された。この間、ニューキャッスルのニュー・タイン・シアター、ウルヴァーハンプトンのグランド・シアターでも短期間上演されたが、どちらもそれほど成功しなかった。シアター・ロイヤル・ストラトフォード・イースト公演時、ロイド・ウェバー版のクリスティーヌ役オリジナル・キャストのサラ・ブライトマンが出演を依頼されたが辞退されたため、オペラ歌手クリスティーナ・コリアが選ばれた。 当時ブライトマンと結婚していたアンドルー・ロイド・ウェバーとキャメロン・マッキントッシュはシアター・ロイヤル・ストラトフォード・イーストでケン・ヒル版『オペラ座の怪人』を鑑賞した〔〔。ヒルとロイド・ウェバーは過去にウィンチェスター・シアターでの『ヨセフ・アンド・ザ・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』再演初期に共に仕事をしたことがあったのである。好評を聞きつけ、ロイド・ウェバーとマッキントッシュは『オペラ座の怪人』のウエスト・エンドでの大作に発展させるためのコラボレーションのためにヒルに接近した。ロイド・ウェバーと彼のプロデューサーのマッキントッシュはとても乗り気であったが、最終的にロイド・ウェバーはヒルなしでの製作をすることにした。 1987年、海を越えてセントルイスのレパートリー・シアターでアメリカ初演が開幕した。サル・ミストレッタが怪人役を演じ、セントルイス劇評家賞を受賞した。1988年、アメリカでの2度目の上演がジョナサン・レイニスのプロデュースによりサンフランシスコのシアター・イン・ザ・スクエアで開幕した。 セントルイス版もサンフランシスコ版も大成功をおさめ、ヒルは全米ツアー公演を打診された。のちにヒルの『''The Invisible Man'' 』ロンドン公演を手掛けることになるレイニスはエレクトリック・ファクトリー・コンサーツと共にツアーをプロデュースするファントム・ツアリング社を組織した。1989年、オリジナルのニューキャッスル・プレイハウスによりツアー公演が製作された。数年かけて110都市をまわり全米で満席となり興行収入7,200万ドルをあげた。 1991年、イギリスに戻り、スチュワート・マクファーソンのプロデュースにより全国ツアーを開始し、その後ロンドンのウエスト・エンドに進出した。1991年12月18日、ピーター・ストレイカーが怪人役、クリスティーナ・コリアがクリスティーヌ役という1984年版とほぼ変わらないキャストでシャフツバリー・シアターにて開幕した。好評なレビューに関わらず、IRAによる爆撃事件などでウエスト・エンド公演は興行収入の面でふるわず、予定より早い1992年4月11日で閉幕した。それでもローレンス・オリヴィエ賞に新作ミュージカル賞、ミュージカル演出賞の2部門にノミネートされ、ミュージカル演出賞を受賞した。ウエスト・エンドを離れ、マクファーソンのプロデュースにより日本、アジア、オーストラリアでのツアー公演が行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オペラ座の怪人 (1976 ミュージカル)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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